その16(2013年12月~2014年3月)

「はじめに」で綴るエイズ対策史

その16(TOP-HAT Newsから)

 国連合同エイズ計画(UNAIDS)の「差別ゼロキャンペーン」は2013年の世界エイズデー(12月1日)にスタートしました。オーストラリアのメルボルンで開かれた式典に当時のミシェル・シディベ事務局長とアウンサウンスーチーさんが出席して開始を宣言し、3月1日を「差別ゼロデー」とすることも発表されています。
 その後、シディベ氏は幹部のセクハラ疑惑に端を発して明らかにされた強権支配体質を批判されて退任し、スーチーさんは今年、国軍のクーデターで軟禁状態になっています。現実の世の中はいろいろります。「差別ゼロ」の理想通りにはなかなかいきません。そもそもアメリカでトランプ氏が大統領になるなどとこの時期に予想できた人は、たぶんご本人も含めて誰もいなかったでしょうし、コロナウイルスの感染症がこれほどの猛威を振るうことになるとも思わなかったでしょう。新興感染症のパンデミックはいつかくるといわれていたのですが、「いずれ」ということで対応は先送りされてしまいました。今にして思えばHIV/エイズというパンデミックに直面していながらもなお、次への備えは忘れてしまうものなのですねえ。

3月1日が「差別ゼロデー」に 第64号(2013年12月)

 「蝶のように舞い」というのは往年のヘビー級世界チャンピオン、モハメド・アリ氏の華麗で軽快なボクシングスタイルを表現した名文句ですね。
 「蜂のように刺す」と続きます。
 国連合同エイズ計画(UNAIDS)が作成した今年の世界エイズデーのポスターにもカラフルな蝶が起用されています。蜂は出てきませんが、華麗かつ軽快です。啓発用のポスターやステッカー、絵はがきなどがUNAIDSの公式サイトからダウンロードできるので、関心がお有りの方はご覧ください。
http://www.unaids.org/en/resources/campaigns/20131126zerodiscrimination/materials/
 きれいですね。心も晴れてくる感じです。オーストラリアのメルボルンで12月1日に開かれた世界エイズデー式典では、アウンサウンスーチーさんとUNAIDSのミシェル・シディベ事務局長が「差別ゼロ」キャンペーンの開始を宣言しました。蝶々はエイズにまつわる差別との闘いの象徴ということでしょう。来年3月1日を第1回差別ゼロデーとすることも、あわせて発表されています。
 UNAIDSはこれまで、「3つのゼロ」(新規HIV感染ゼロ、差別ゼロ、エイズ関連の死亡ゼロ)を目指すべきビジョンとして掲げてきました。そのビジョンはいまも変らないのですが、その中でもとくに「差別ゼロ」に焦点が当てられているのはどうしてなのか。メルボルンの式典で、シディベ事務局長は「新規感染ゼロもエイズ関連の死亡ゼロも、差別ゼロに向けて闘わない限り、実現不可能である」と語っています。極めて当然、かつまっとうな認識というべきでしょう。キャンペーンの開始を伝えるプレスレリースにはこんな記述もありました。
 《HIV陽性者および感染の高いリスクにさらされているキーポピュレーションに対する差別は、HIVサービスへのアクセス拡大を妨げる大きな障壁となっている。各国の調査では、HIV陽性者7人に1人が医療へのアクセスを拒否され、10人中1人以上がHIVに感染していることを理由に就労を断られているという》
 アウンサウンスーチーさんは式典のスピーチで「すべての人が花開き、咲き誇る世界が訪れることを確信しています。どんな人であるかに関わりなく、尊厳ある生活を送ることができるよう、みんなで変化を生み出していきましょう」と呼びかけました。イメージとしての蝶は、その花の咲き誇る未来からの使者ということになります。
 冬の世界エイズデーだけでなく、春には差別ゼロデー、そして日本の場合は6月の最初の1週間がHIV検査普及週間です。東京都の場合だと、その検査普及週間を含む6月の1カ月間がHIV検査・相談月間、そして世界エイズデーを中心にした11月16日~12月15日がエイズ予防月間です。予防と支援のメッセージをきめ細かく伝えるために、蝶々のポスターやステッカーや絵はがきの出番もこれから増えていきそうです。
 UNAIDSのプレスリリースの日本語仮訳はHATプロジェクトのブログに掲載されています。
http://asajp.at.webry.info/201312/article_2.html

「希望を買おうとした男」第65号(2014年1月)

 米国の映画芸術科学アカデミーが1月16日、第86回アカデミー賞の候補作、候補者を発表しました。宮崎駿監督の『風立ちぬ』が長編アニメ賞にノミネートされたこともあって、日本でもけっこう報道されましたね。受賞作、受賞者の発表と授賞式は3月2日(日本時間3日)です。宮崎監督にとっては03年の『千と千尋の神隠し』以来となる朗報が届くことを期待するとして、ここではHIV/エイズの流行を取り上げたもう一つの話題作を取り上げます。
 日本では2月22日封切り予定の米国映画『ダラス・バイヤーズクラブ』は、作品賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞、編集賞、メイク・ヘアスタイリング賞の6部門にノミネートされています。ノミネートに関しては10部門の『ゼログラビティ』『アメリカン・ハッスル』の2作品に及ばなかったものの、本番はまだこれから。マルチ受賞もあるかもしれません。アカデミー賞の前哨戦とも言われるゴールデングローブ賞では、主人公でエイズを発症したカウボーイ、ロン役のマシュー・マコノヒーが主演男優賞、同じくエイズ患者でバイヤーズクラブの相棒となるトランスジェンダーのレイヨン役ジャレッド・レトが助演男優賞を受賞しています。
 《1985年、アメリカで最も保守的とされるテキサス州で、HIV陽性により余命30日と宣告された男がいた。男の名前はロン・ウッドルーフ。同性愛者でもないのになぜ!? と怒りを周囲にぶつけるロン》
 映画の公式サイトは、このような書き出しで作品について説明しています。かなり刺激的ですね。「同性愛者でもないのになぜ」という怒りは1985年当時の米国の異性愛中心社会では、すんなりと受け止められてしまう種類の「怒り」でもありました。映画の名誉のために付け加えておけば、ロンの性的少数者に対するまなざしは自らの経験を通して少しずつ変化していきます。その控えめな変化の描写を通じ、観客はおそらく最初の怒りそのものの不当性にも気付いていくのではないでしょうか。
 ただし、映画ではこの点はサイドストーリー的な位置づけで、話の中心になるのはHIV/エイズの有効な治療法がまだ確立されていなかった80年代後半の厳しい現実でしょう。バイヤーズクラブというのは、未承認薬であってもとにかく効きそうなものがあれば試してみたい、密輸でも何でもして手に入れたいという当時の絶望的ニーズに対応し、全米各地に生まれた会員制の薬の供給組織です。主人公ロン・ウッドルーフは実在した人物で、テキサス州ダラスにおけるクラブの創設者でした。
 地元の有力紙ダラス・モーニングニュースの公式サイトには昨年11月1日付で《時間を買う:ロン・ウッドルーフ 世界をまたにかけ治療薬ーとエイズ患者の希望ーを密輸する男》という、おそろしく長文の記事が掲載されています。1992年8月9日のダラス・モーニングニュース紙の日曜版付録の雑誌に掲載された記事の再録ということなので、映画の公開を機に地元で(そしておそらくは全米で)、彼の存在とあの絶望的なまでに死と直面していたエイズの時代がもう一度、注目されることになったのでしょうか。
 記事によると、ロン・ウッドルーフは1986年(映画の設定より1年遅い)にエイズと診断され、同時にHIV感染が判明したガールフレンドとともに「絶望的な時には絶望的な手段を選ぶこともある」とメキシコから未承認薬を密輸し、会員制のクラブ形式で会費を払ったメンバーに配布するビジネスを始めました。米国では最初のエイズ治療薬として1987年にAZTが承認されましたが、当初は用量が多かったこともあって副作用がきつかったうえ、単剤では1年ほどで薬剤耐性ウイルスが出てきて薬が効かなくなることもやがて分かってきます。有効な治療薬が登場するまで生き残れるか、それとも死が先に訪れるか、HIV陽性者にとっては薬の開発と衰えゆく自らの身体が生き残りをかけたタイムレースを続けるような日々でした。
 ロン・ウッドルーフは「リスクを取ることを望むか望まないかという問題ではない。取るしかなかったんだ」とインタビューに答えています。記事はまた、《あと何日か、何週間か生き延びるためにロン・ウッドルーフが密輸した薬を使う》ということには賛否の大きな議論があったことも紹介しています。米国には当時、大きなものだけでも9つのバイヤーズクラブがあり、ダラスはその中でも最も過激で危ない橋を渡るクラブという評判だったようです。新薬の承認を担当する連邦政府の食品医薬品局(FDA)や医学界などとの衝突もしばしばあり、手入れを受けたり、逆にFDAを訴えて裁判を起こしたりもしています。
 ウッドルーフは、致死的な病を抱える患者を食い物にする米連邦政府と巨大製薬会社と医学界の陰謀といった主張も繰り返し行っています。映画は実在の人物を描いているとはいえ、話をドラマティックに盛り上げるための脚色は当然あるでしょうし、架空の人物も登場しています。善玉と悪玉のキャラクターを登場人物に振り分けていくような作劇手法もシナリオを練っていく段階で意識的に採用されていったようで、それが映画のテイストに反映されている面もあります。
 したがって、何とか一人でも多くの人を助けたいという使命感から治療研究に取り組んでいた医師の中には余りにも不当に扱われていると心外に思う人もいるかもしれません。最初のエイズ治療承認薬であるAZTに関しても、前提条件を抜きにして毒を処方するかのように描写されていることに憤りを感じる研究者もいるのではないでしょうか。ロン・ウッドルーフ自身、毀誉褒貶の激しい人物だったことはダラス・モーニングニュースの記事からもうかがえます。
 ただし、そうしたことも含め、映画は1980年代後半から90年代初めにかけての米国の困難なエイズの時代の雰囲気をよく伝えている印象は受けます。なぜHIVに感染した人たちはあれほど激しい怒りを持ったのか。ニューヨークでは1987年に劇作家ラリー・クレーマーが激越な演説を行い、アクトアップNYが生まれています。「沈黙=死」。それが政治的な抗議活動で状況を変えようとしたアクトアップのスローガンでした。黙っていたら殺されてしまう。ロン・ウッドルーフはその頃、地下ビジネスとして未承認薬の密輸を続けていました。立場は異なりますが、怒りの中身は共通していたように思います。
 この30年の間にHIV/エイズとの闘いを通して、米国社会の様々な仕組みが変っていきました。その変化を動かす大きな力の少なくとも一つが(すべてではありません)、こうした怒りであったことは否定できません。
 ロン・ウッドルーフは1992年9月に死去しました。今回の映画の脚本家の一人であるクレイグ・ボーテンはその死の直前にカリフォルニアからテキサスまで車を運転してウッドルーフのもとを訪れ、20時間に及ぶインタビューを行っています。そのとき、あなたの話が映画になったらどう思うとボーテンが尋ねると、ウッドルーフは「ぜひ観てみたいね」と答えたそうです。つまり、映画化の話はその時点からスタートしているのですが、紆余曲折を経て、脚本の手直しも重ね、ようやく完成にこぎつけたのは20年後でした。
 なぜ20年もかかったのか。1990年代の初めにエイズで死んだ男の物語がどうしていま、これほど話題になるのか。もちろん映画の力が大きいのでしょうが、でも、それだけなのでしょうか。そして、現在の日本では、その映画に触発されてどんな議論が起きるのか、あるいは起きないのか。2月22日の日本国内封切り、そして日本時間3月3日のアカデミー賞発表は秘かに注目しておきたいところです。

Moving(感動的)と評価されたスピーチ 第66号(2014年2月)

 国連合同エイズ計画(UNAIDS)と英国の医学誌ランセットの呼びかけで作られたUNAIDS・ランセット委員会の最終会合が2月13、14の2日間、ロンドンで開かれました。日本からは安倍首相夫人、昭恵さんが委員として出席し、そのスピーチはUNAIDSの公式サイトに掲載された2月18日付の特集記事《First Lady of Japan to champion ending AIDS》(日本のファーストレディがエイズ終結に向けた闘いのチャンピオンになろうとしている)でMoving(感動的)と紹介されています。
http://www.unaids.org/en/resources/presscentre/featurestories/2014/february/20140218fljapan/
 UNAIDS・ランセット委員会について少し説明しておきましょう。21世紀の開発分野で国際社会の共通目標となっていたミレニアム開発目標(MDGs)が2015年に最終年を迎えるため、国連では現在、2015年以降の新たな目標(ポスト2015)をどのようなものにするか、議論が進められています。委員会はそのポスト2015に向けたエイズと国際保健分野の提言をまとめるため、昨年5月に発足しました。マラウィのジョイス・バンダ大統領、アフリカ連合のンコサザナ・ドラミニ=ズマ委員長、ロンドン大学衛生・熱帯医学大学院のピーター・ピオット学長の3人が共同委員長を務め、政府指導者やファーストレディ、エイズおよび保健分野の専門家、若者、アクティビスト、民間企業の代表らが委員になっています。これまでにアフリカ、アジアなど各地で地域レベルの会合を開催し、以下の3点について幅広く意見を集約しつつ検討を進めてきました。

・「エイズの終わり」に向けて何が必要か。その課題と展望
・エイズ対策の経験をどのようにして国際保健と開発の変革に生かしていくか
・ポスト2015の開発課題として国際保健とエイズ対策をどのように位置付けるか

 ロンドン会合はその集大成で、これをもとに具体的な提言を含む委員会報告書が5月か6月にランセット誌上で発表される見通しです。安倍昭恵さんは昨年11月に委員に加わり、最終会合ではガーナのジョン・ドラマニ・マハマ大統領、ガボンのシルビア・ボンゴ・オンディンバ大統領夫人、ルワンダのジャネット・カガメ大統領夫人らとともに初日の13日にスピーチを行いました。UNAIDSによると、その中で昭恵さんは「この委員会は歴史的な役割を担っています。これまでに蓄積した知識と技術を生かし、次世代のためにHIVの流行を克服する新たな方法を見つけ、これまでに倍する努力を傾けられるようにすることです」「私たちは誰も置き去りにすることなく進んでいかなければなりません。より健康に生きていくことができるよう、エイズ対策の成果を他の分野にも活用しなければなりません」(英文プレスレリースからの日本語仮訳)などと語っています。また、先ほどの特集記事は次のように伝えています。
 《彼女はとくにHIV陽性者が直面している差別や偏見に心を痛めています。抱擁するか押しのけるか、その腕の長さ一つの違いです。「そのほんの1メートルが深い湾となって、HIV陽性者に対する正当化できない差別を生み出しています」と彼女は語りました》
 昭恵さんは昨年5月に横浜で開かれた第5回アフリカ開発会議(TICAD5)の国際シンポジウム「エイズを考える:アフリカと日本の共通課題」を主催して以来、何度か東京・新宿2丁目のコミュニティセンターaktaや日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラスの事務所などを訪れ、日本のエイズ対策と取り組む人たちとも現場で親しく話をしてきました。そうした積み重ねがスピーチにも反映されたのでしょうね。日本の貢献はお金だけではないし、日本国内にもエイズとの困難な闘いを続けている人たちはいるということを国際社会に知ってもらううえでも今回の委員会は貴重な機会となったようです。

20年の重み 第67号(2014年3月)

 特定非営利活動法人ぷれいす東京が4月29日(火・祝)に設立20周年記念シンポジウムを開催します。テーマは「HIV/エイズとともに歩んだ20年と、これからのこと」ですね。エイズ対策にはHIVの感染の拡大を防ぐ「予防」、そして感染した人や感染の高いリスクにさらされている人が社会生活を続けていく条件を整える「支援」の2つの視点がともに必要です。どちらか一方だけでなく、相乗作用があって初めて効果の高い対策が実現できる。それはこの20年の大きな教訓でもあります。記念シンポがあえて「ともに歩んだ」というキーワードを打ち出していることにも、注目しておきたいですね。現場のニーズを重視し、予防と支援の対策にバランス良く取り組んできたNPOとしての自負と期待のメッセージも、そこにはさりげなく込められているのではないでしょうか。
 ぷれいす東京の公式サイトに記念シンポジウムの案内が掲載されています。
http://www.ptokyo.com/topics/20thanniversary.php
 《国際エイズ会議が日本で初めて横浜で開催された1994年、ボランティアの有志により「ぷれいす東京」が設立されました。以来20年間、ゲイ・バイセクシュアル男性らを含む年間約4,000件のHIV陽性者とそのパートナー・家族からの相談、2,400件の感染不安に関する電話相談を受けるなど、地域に根ざした活動を続けています》

 記念シンポの概要も紹介しておきましょう。
■日時
2014年4月29日(火・祝)14:00~17:00予定(開場13:30)
■会場
箪笥地域センター 5階 コンドル(多目的ホール)(東京都新宿区箪笥町15番地)
  都営地下鉄大江戸線 牛込神楽坂駅 A1出口 徒歩0分
  東京メトロ東西線 神楽坂駅 2番出口 徒歩10分
  都バス 橋63 小滝橋車庫前⇔新橋駅 牛込北町下車
■出演
 ・池上千寿子(ぷれいす東京前代表)
 ・樽井正義(慶應義塾大学名誉教授)
 ・根岸昌功(前都立駒込病院感染症科部長・ねぎし内科診療所院長)
 ・宮田一雄(産経新聞編集委員)
 司会
 ・生島嗣(ぷれいす東京)
 ・大槻知子(ぷれいす東京)
■参加費 無料
■事前申込 不要

 温故知新といいますか。設立間もない時期の様子を聞けば、これからの活動にも大いに参考にできるかもしれません。ぷれいす東京のサイトでも紹介されているように、1994年は8月に横浜で第10回国際エイズ会議が開催された年です。ぷれいす東京以外にも、この年が出発点となった組織、あるいは人は少なくありません。国際エイズ会議と同時並行的に開かれたAIDS文化フォーラムin横浜はその後も毎年8月にフォーラムを開催しており、今年が20周年、8月1日(金)から3日(日)まで第21回フォーラムが横浜駅西口のかながわ県民センターで開かれます。
http://www.yokohamaymca.org/AIDS/
 日本国内だけでなく、国際的な観点からも1994年はエイズ対策の大きな節目の年でした。国連の経済社会理事会では7月に世界保健機関(WHO)や国連開発計画(UNDP)など国連関係6機関による「国連エイズ共同プログラム」設立を推進する決議が採択され、それが国連合同エイズ計画(UNAIDS)創設のスタートラインでした。横浜会議を経て12月にはパリでエイズサミットが開催され、共同宣言でGIPA原則が打ち出されています。
 GIPAは「HIV陽性者やHIV感染の高いリスクにさらされている人たちが、エイズの流行に最も大きな影響を受けている当事者として各国のエイズ対策に積極的に参加できるようにし、その意見が実体をもって政策に反映されるようにすべきである」という原則です。高らかに宣言はしたものの、各国の事情が様々に異なることもあって、宣言されたことがその通り実行できるのかというと、実はそう簡単にはいかない。言うは易し、行うは難し、ですね。
 これまでの20年間はそうした現実に直面し、うまくいかないこともたくさんあったけれど、それでも20年前と比べれば、ずいぶん状況は変わった。そういう漸進的な歩みでもありました。その中で、対策に携わる人たちの意識も変わったし、行政担当者と現場のNPOの人たちが意見を交換したり、協力して対策に取り組んだりしていく事例も少しずつではありますが積み重ねられてきました。続けていくことは大変であり、大切でもあります。ぷれいす東京の20年は、こうした観点からも大きな意味を持つ20年でした。シンポジウムが楽しみですね。