東京都HIV/AIDS症例懇話会から

東京都HIV/AIDS症例懇話会から

『東京都HIV/AIDS症例懇話会』から

HIV感染症「それぞれのもうひとつの闘い」

 HIV感染症は、私たちの社会の広い分野にわたって深い影響を与え続けています。この慢性の経過をたどる感染症に向かい合うには、病原体であるHIVとの科学的技術を駆使した闘いが全てではありません。HIVを内に抱えた人の生活と社会参加を妨げないための闘いも、立法・行政・司法、そして医療従事者、当事者・関係者、市民が担うそれぞれの立場のもうひとつの闘いです。このもうひとつの闘いをめぐる30年あまりの様々な出来事を、一臨床医の立場から見直してみます。年表とその注をご参照ください。なるべく時系列に沿ってまとめてみます。
 日本では、1877年(明治10年)から、急性伝染病患者を隔離することで、国民を守る政策をとってきました。長与専斎は隔離について、『多数を救うには少数は顧みるに遑あらずとの主義』(松香私志)と述べています。
 1907年(明治30年)の『癩予防に関する件』では、癩という慢性感染症に対する隔離政策が定められました。(小笠原昇らは「らい」の絶対隔離政策に反対し、外来診療をした)日本では、この法律が施行されている法的状況下の1981年、「ゲイの奇病」(1982年AIDSと命名)が登場しました。
 [一方、1981年に世界医師会(WMA)はリスボン宣言を出しています。ここには、「患者の権利」を守るため、権威(法も含む)からの自立という基本的な職業倫理が、医師・医師団体に課せられています。](注3
 翌1982年、米国ではAIDS患者に対する救済運動をGMHC(ゲイメンズヘルスクライシス)が始めています。公衆衛生学者であるJ.Mann は後に「我々は、ゲイの人々に感謝すべきである。この病気とどう闘い、どう付き合うかの有力なサンプルを与えてくれた」と発言しています。
 その後約2年間の疫学と基礎医学の調査・研究で、この病気の分布、リスクが理解され、病原体分離から抗体検査法が作られ、抗体陽性でも発病していない人が多数いることが確認され、医学・医療界ではこの頃既に、この感染症は慢性・進行性の疾患で、AIDSはHTLV-Ⅲ感染症の終末臨床像であると、理解されていました。(1986年にLAV、HTLV-Ⅲ、ARVはHIVに統一された)
 1985年、都立駒込病院感染症科ではAIDS診療を開始し、翌1986年には血友病者、ゲイ、ジャパユキさんの会合、勉強会に参加し、彼らの状況を知りました。この年には、第一回エイズ・キャンドルライト・メモリアルを南定四郎が新宿で開催しました(注7)。
 1986年、87年の松本・神戸・高知での『エイズ騒動』でAIDSに関する単独立法へと動き、担当議員から『ひとりの人権を守るあまりに、99人の命を危うくしてもよいのか』との発言があり、自治体に「調査権」「検査命令権」を与え、医療の場に行政の介入権を設定しようとしました。この動きに対し、疫学の立場から大井玄は「公衆衛生学的措置」としての疑問を指摘し(注9)、行政の立場から、伊藤氏は立法が必要と主張、臨床医療の立場から、根岸は『感染者は犯罪者ではなく、支援を必要とする人である』と主張しました(注10)。
 それまで約2年間の診療経験で、この疾患への誤解、発病者への仕打ちを見、『エイズという病気はほかのどんな疾患にもまして、人と人との結びつきを破壊し、社会に波紋を投げかける』、『エイズは医学の進歩で管理できるだろう。しかし、エイズの生み出す心の問題、社会の問題については、一人ひとりが考え、答えを出していくしかないのだろう』と『エイズを診る』(注13)のなかで指摘しました。
 この年、瀬戸内海の長島に橋が架かり、らい療養所・愛生園と本州とがつながりましたが、門も造られました。ハンセン病者から『らいと同じ間違いをしないで』という手紙をいただきました。第一回日本エイズ研究会が京都大学で開かれ、研究者・医療者のみならず感染当事者を含め、多分野の関係者との会合が開かれました(注12)。
 1988年、米国大使館から、D.Shensonの記事の翻訳依頼がありました(注15)。彼は、ニューヨークの病院でAIDS患者から『私は癩のように嫌われている』と言われ、ルイジアナ州カービルに残っている癩療養所を訪ね、そこで生活する女性の話を聞き、それまでのいきさつと法廃止後の事情も知ります。療養所長は『あの法律が行った最も悪いことは、ここでしか生きられない人を作ったことだ』と述べています。彼はS.Sontagの“Illness as Metaphor”を引用し、『らいと同じくエイズが何かを象徴してなどいない』と述べ、さらに『エイズは新たに現れた一つの病気に過ぎず、それを超えるものでも、それ未満でもない。そこには罪人はいない、単に病気の男と女そして子供がいるだけで、彼らは皆、私たちの助けを必要としている』、『エイズという病気を過去の偏見から解き放ち、社会的に管理できる病気に換えることは、私の診察室から始まる。私には患者の予後を変えられないが、彼と彼の病気との関係を変えることはできる』と指摘しました。この年に国際エイズ学会(IAS)と人権情報センターが発足しました。(注16
 エイズ関連法制定の経緯、枠組みについては、1988年の衆議院社会労働委員会での予防法案に対する意見陳述を経て(注17)、翌1989年に『後天性免疫不全症候群の予防に関する法律』が施行され、3年後の1992年に、公衆衛生審議会が「エイズ対策に関する提言」を出し、「エイズ問題は単なる医学的な問題ではなく、国内的には様々な社会・経済問題と密接に関連している」と述べ、国際協力を含め、4項目の提言をしました。その4年後の1996年「らい予防法」廃止、更に2年後の1998年にはこの「エイズ予防法」と「伝染病予防法」「性病予防法」が廃止され、現行の『感染症の予防及び感染症の患者の治療に関する法律』が制定され、HIV感染症については大臣告示の『予防指針』が示され、その後5年ごとの見直しがされています。
 1989年に戻ります。エイズ予防財団が設立され(注18)、心理的ケアを学ぶ第一回カウンセリング研修会が開始されました(注19)。米国ではR.Mapplethorpeを42歳で、翌1990年には、Keith Haringを31歳で失いました。この年、多くの分野の個人と団体が集い、AIDS&Society研究会議が発足しました(注21)。個人の尊厳を支えるMQJも発足しました(注22)。米国ではRyan Whiteが亡くなりました(注23)。Ryanは血液製剤からHIVに感染し、PCP(ニューモシスチス・カリニ肺炎)を発症。地元の学校は共に学ぶことを拒否。Ryanたちは地域社会とも闘わねばなりませんでした。しかし転居先のシセロの町とハミルトンハイツ高校には理解ある人々もいて、彼らを支えてくれました。『ぼくにも生きられる場所があった』と彼は話しています。この年、全米障害者法が成立しました(注24)。
 「エイズ予防法」は法曹界にも波紋を投げかけ、法制定後も検討を続け、1991年に「エイズに学ぶ」(注25)が編集されました。その後も、無断検査、診療拒否、Informed Consentの検討、血友病訴訟、HIV感染理由の解雇への訴訟など、人権をめぐる事柄が起こっています。
 1992年、第8回国際エイズ会議がアムステルダムで開かれました(注27)。
 1994年、ぷれいす東京が発足(注28)、第10回エイズ国際会議が横浜で開かれました(注29)。「エイズ予防法」には付則にHIV感染者の入国規制条項があったため、また、主催者側にcommunity-liaisonの考え方への理解不足があったため、若干の混乱はありましたが、成果も多い国際会議でした。第一回横浜エイズ文化フォーラムが民間からの主導で開かれました(注30)。東京HIV診療ネットワーク(NW)が発足しました(注20)。パリ・エイズサミットでは、政治課題としてのHIV感染症が取り挙げられています。(GIPAの原則も意見交換あり:注58
 1995年、石田吉明が亡くなりました(注32)。東京都の『たんぽぽ』は今も役割を果たしています。
 1996年、血友病エイズ訴訟の和解が成立し(注34)、和解条件である恒久対策で、特に福祉制度が整備されました。東京HIV診療NWでは日本での福祉制度の検討をする際に、社会事業大学の佐藤久夫教授に国際障害分類(ICIDH-β)の講義を受けました。障害者の背景因子、特に環境因子を変えることで障害者の社会参加が改善される方向性を示し、この理念が、1998年のHIV感染症の内部障害認定への理論的裏付けになりました(注24)。認定により、日本では、HIV感染者の「治療へのアクセス」が大きく改善されました。国際障害分類はその後見直され、2001年には国際生活機能分類(ICF)へと進展しました。
 1997年、東京都の「外来診療のあり方に関する研究」報告書が出され、歯科を含めたキャリアクリニック構想の原点になりました。注42につながります。
 1998年に、飛行機事故でJ.Mann夫妻を失いました。彼は6年前、第8回国際エイズ会議組織委員長でしたが、HIV感染者に対する米国の入国規制政策に反対し、米国政府に政策の変更を進言し、受け入れられなかったため、開催予定地をボストンからアムステルダムに変更しました。以来、オバマ大統領が入国規制政策を撤回するまで、米国では国際エイズ会議が開けなくなりました。注4の当時から、HIV感染者が自らの命と、エイズ対策に関わるプログラムの製作に参加する権利とを擁護するために、彼は闘ってきました。没後10年の2008年にUNAIDSは保健と人権分野における彼の業績を讃えています。
 この年から抗HIV剤の知的所有権・財産権とHIV感染者の「治療へのアクセス」との間のトラブルや訴訟が起こり、現在も続いています(注37394650)。WTOの知的所有権の貿易関連側面に関する協定(TRIPS協定)および2001年のドーハ宣言は、治療薬の知的財産権について一定の制限を設けています。知的財産権が、特に途上国での「保健・医療へのアクセス」を阻害しているからです。しかし、守られておらず、より安価なジェネリック薬で、より多くの感染者に治療を提供しようともがき続けていているのが国際的現状です。
 2000年、HIV感染者が安心して過ごせる空間・ポジティブカフェが軽井沢、後に山形でも開設されました(注38)。
 2001年にはドーハ宣言、国際生活機能分類以外にも、国連エイズ特別総会コミットメント宣言(注39)、ILOの「政労使の行動規範」の発表もありました。
 2002年、JaNP+が発足しました(注41)。
 2004年、HIVキャリアクリニック構想がまとまり、その実現を模索し始めました。根岸は、何人かに構想を話し、同志を探し、同時にいくつかの財団に支援を要請しましたが、それで診療所が事業として継続運営できるメドが立たず、実施に至りませんでした。「施設基準」を満たす最小限の規模で実行すると決め、候補地探しを始めました。大手不動産紹介業社は、HIV感染症を扱うと説明すると、ほぼ門前払いで、貸主との話し合いにさえたどり着けません。三社であきらめ、駅前不動産屋に飛び込むことにし、しらみつぶしにあたり始め、2年ほどのうちに3ヶ所の不動産屋が、我々を応援してくれました。2007年からその候補地のひとつで現在まで、金・土・日・月の午後、診療を続けています。活動内容および問題点を、毎年日本エイズ学会で報告しています。
 一方医療政策面では、2008年にTreatment as Prevention(他への感染を予防するための治療)が提唱されました。HIV診療に携わってきた医療者は、抗HIV剤治療で、HIV-RNA量が少なくなると、その人からの二次感染がないことを、以前から知っていました。しかし、薬剤の急性毒性、長期使用の副作用、薬剤耐性発生の懸念、とりわけ膨大な費用から、TasPを政策として取り入れる国や地域はありませんでした。TasPでしか流行を止められないのか、この政策の社会的背景を慎重に検討する必要があります(注4350、その位置付は注56)。
 2010年、IASが「ウィーン宣言」を出しました。薬物使用を犯罪であり、使用者を犯罪者とみなし、処罰することで薬物使用を止められるのか、検討しなおす機運を作りました。この宣言は、薬物使用者を「犯罪者」でなく「治療を必要とする人」としています(注44)。
 2011年、CDCは条件付きで、HIV感染予防のためのツルバダ事前服薬(PrEP)を承認しました(条件は注4550、その位置付は注56)。
 2013年、UNAIDSはHIV治療へのアクセス向上に関する専門家会議を開催し、公開しました。その中で、過度の知的財産権政策が、治療および予防活動を困難にしていると述べ、知的財産権の新たな枠組みを提言しています(注46)。
 2014年、UNAIDSは「2030年のエイズ終結に向けて」を発表(注47)。そのためには2020年までに、HIV感染者の90%が感染を知り、うち90%が治療にアクセスし、うち90%が十分にHIVを押さえ込む必要があると提言しています(90-90-90)。カスケードと呼ばれるこの手法は既に結核対策で実行されています。HIV感染症で通用するかは不明です。
 一方米国CDCは、2013年末の米国内HIV感染者推定数は120万人で、うち86%は感染を知り、そのうち3か月以内の治療開始は82%なのに、治療の継続は39%、HIVの抑制成功は30%であるという厳しい現状を報告しています(86-39-30)(注48)。なぜ治療が継続できないのか、高額な薬剤費用、医療保険制度・福祉制度の不備が指摘されています。
 第20回国際エイズ会議では、メルボルン宣言が発表されました(注49)。「すべての人は、そのsexualityにかかわらず、平等の権利があり、HIVの予防・ケア・治療の情報とアクセスでも平等である」と述べ、「依然として流行の主要因になっている犯罪視や偏見、差別などの障壁を克服できなければ、エイズの終わりは実現しない」と結んでいます。
 同年12月に、UNAIDSのプログラム調整ボードで、NGOを代表して、J.Rockは「HIV感染者の治療へのアクセスを阻む知的財産権の壁」を発表しました。それによると途上国では、HIV‐RNA量測定が十分できず、薬剤耐性検査もなく、更に第2、第3選択の抗HIV薬剤もないまま、1290万人に抗HIV剤治療がされ、一方、製薬資本が、WTOのTRIPS協定を守らず、ドーハ宣言にも違反し、感染者の治療へのアクセスを阻害していると指摘し、『知的財産権障壁を解消しない限り、PrEPもT as Pもあり得ない』と述べています。
 エイズ対策予算削減のためか、aktaの存続が危ぶまれる事態になりました(注51)。
 2015年、感染症対策の基礎になる疫学資料に表れない郵送検査については注52の文献を参照してください。郵送検査の倫理性も検討する必要があります。経営側が検査キットを業者に注文する意図は何か、検査同意が自主的にできる職場環境なのか、検査結果の情報管理はだれがどのようにするのか、一方私たちはSex WorkerというKey Population(流行の規模を左右する、感染リスクの高い群)にどう向き合っているのか、このままではSWの「人としての尊厳」が失われます。この件は注55の「検査時の五つのC」につながります。
 「NO TIME TO LOSE」が出版されました(注53)。
 HIV/AIDSに対する米国国家戦略が5年ぶりに改訂されました。『HIV感染はまれにしか起こらず、感染しても、年齢、性別、人種/民族、性的指向、性的アイデンティティー、あるいは社会経済的立場にかかわらず、すべての人が良質で、長寿を可能にするケアをなんの束縛もなく受けられる。また、偏見や差別に曝されることもない。米国はそのような場所になる』とし、四つの目標を示し、10項目の数値目標を設定しました。一方、日本のHIV感染症の現状分析、展望、目標、それを実現するための資源、戦略、具体目標、行動プランは?。この視点で大臣告示の『予防指針』をみる必要があります。
 UNAIDSのTerminology Guidelines-2015が出され、2016年にエイズ予防財団の日本語翻訳文が公開されています。用語の定義、解説をすることで、UNAIDSの政策実行の姿勢、方向性を知ることができます(注55)。
 2016年6月国連総会ハイレベル会議の政治宣言が発表されました(注56)。
 10月、厚生科学審議会感染症部会で『エイズ・性感染症小委員会』の設置要綱が決定し、エイズ、性感染症の二つの予防指針を同時に検討することになり、12月に第一回会合が開かれました。10人の委員に感染当事者の参画はありません。参考人としての意見聴取に留まりました。国際的には、当事者が政策決定に参画する権利も擁護されるようになり、かつ、当事者の参画で、より現実的な施策が可能になる利点が認められていますが(GIPAの原則:1994年)、日本では、今回の予防指針検討でも、実現できませんでした。(注58)。
 年表の最後に2016年7月12日のUNAIDS報告によるHIV感染症の推計数を示しました。

—–以上が、HIV感染症、それぞれのもうひとつの闘いの全体像とその資料です。

 臨床に関係する分野には、医学、医療、社会状況の三つがあります。
 医学には、疫学と基礎医学があります。疫学は罹患率・コホートなど社会的影響の評価とそれを応用・実践する政策につながり、基礎医学は疾患病理の科学的解明から、それを応用した治療技術を生みだします。
 医療は、医療技術とそれを支える医療制度の分野があり、この二つが機能しなければ医療は成り立ちません。
 HIV感染者への医療技術は、適切な時期に抗HIV剤などを使用してAIDSへの進行を遅らせ、HIV駆逐技術の登場を待つのが現在の戦略です。
 医療制度には、保険制度、福祉制度、技術提供の場の三つが必須です。これら三つが機能しなければ、受診者も医療者も医療技術を利用できません。現在、医療技術提供の場はエイズ拠点病院体制で行われています。
 社会状況とは、HIV感染症という疾患とその感染者とに対する人々の姿勢であり、政策、制度、地域活動、教育などに影響し、直接・間接に臨床医療にも影響し、促進あるいは阻害する力さえ作ります。障害者の環境因子の改善を図って社会参加を進める、という国際分類の新しい理念が市民・地域活動・公の機関・医療機関・企業に十分理解・消化されていないため、HIV感染者の社会参加は厳しいのが現状です。

 医療技術を有効にするのも無効にするのも、第一義的に受診者個別の事情にかかっていて、次に、HIVに対する社会状況、そして技術提供の場と制度にかかっています。

 私たちはこれまでの流れの中で、多くの財産を受け継いでいます。

 公衆衛生学的な冷静な判断、当事者の決断と行動力、多くの正確で公平な情報、困難に直面した際の団体と個人の知恵と勇気、組織を動かす力となる科学的根拠と情熱、臨床医療を支えている公平な保険制度・福祉制度、そしてこれらを示してくれた多くの集団と人材があります。

【メモ1】

UNAIDS:『HIVでもエボラでも、公衆衛生キャンペーンは、感染予防策、治療が受けられる体制整備、スティグマとの闘い、うわさや誤解への反論という作業を組み合わせて進められてきた』
IRIN:『治療の普及で流行は終結させられるという信仰が強調されすぎた』

【メモ2】

基本的人権 平等権
自由権的基本権 人身の自由・精神の自由・経済の自由
社会権的基本権 生存権・教育を受ける権利・勤労権・団結権
参政権(参画権)
● HIV/AIDS年表 ーーー ー臨床医の立場から
(事柄…J=日本国内の事柄 U=国際的事柄 *=根岸関与)
事柄
1877 J 「虎列刺病予防心得」急性伝染病に対する隔離政策(明治10年) 1
1907 J 「癩予防に関する件」慢性感染症に対する隔離政策, 1996年まで施行 2
1981 U ゲイ男性の免疫不全例を報告、CDC.MMWR、1981:30;250-252
U 世界医師会(WMA)「リスボン宣言」:患者の人権、医療者の自立を提唱 3
1982 U GMHC(NGO)がAIDS患者に対する救済活動開始:J.Mannのコメント 4
U 血友病者にもAIDS患者の報告
1983 U パスツール研究所LAV分離を報告
1984 U NCI、HTLV-IIIを分離、抗体検査法普及:慢性・進行性感染症の認識
1985 J 初めての症例報告:厚生省研究班は1983年の血友病例を認定せず 5
J 10月、都立駒込病院感染症科、エイズ専門外来開設(*)。初入院例(*)
1986 J 「京都からの手紙」の会合:血友病者の置かれた状況を知る(*) 6
J 東京医大、帝京大学、順天堂、荻窪、駒込、連絡会・勉強会(*) 20
J 松本の報道、ゲイ組織および矯風会(HELP)との勉強会(*)
J エイズ・キャンドルライト・メモリアル、南定四郎  新宿 7
1987 J 神戸・高知の報道、単独立法への動き、米国・欧州へ議員団視察 8
J 『AIDS流行のポテンシャルと公衆衛生学的措置』 9
J 朝日新聞論壇でのやり取り、疫学、行政、臨床(*)の立場から意見表明 10
J 瀬戸内海、長島(愛生園)が橋で本州と繋がったが、門も造られた。 11
J 第一回日本エイズ研究会、京都大学、多分野関係者の参加あり 12
「エイズを診る」(都立駒込病院担当医師団著、朝日新聞社) 13
U AZTを抗HIV治療薬として米国が承認 14
1988 U D.Shenson著“When Fear Conquers” 28 Feb. 1988 The N.Y. Times Mag. 15
J HIVと人権情報センター発足(*) 16
J 衆議院社会労働委員会(*) 17
J 厚生省「HIV感染者カウンセリング検討会(*)」
U 国際エイズ学会(IAS):医学・医療を含む広く多分野と連携する学会
1989 J 「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」施行
U R.Mapplethorpe、42歳で死去 後にワタリウムで勉強会(*)(1991年)
J 「エイズ予防財団」発足 18
J 第一回「エイズカウンセリング研修会(*)」 19
1990 J 「AIDS&Society研究会議」発足(*) 21
J 「MQJ」発足(*)。個人の尊厳を支えるNAMES project運動の表現 22
U Ryan White死去、Keith Haringは31歳で死去 23
U 全米障害者法成立  WHOのICIDH-βは2001年にはICFへ進展 24
1991 J 「エイズに学ぶ(*)」山田卓生、大井玄、根岸昌功編、日本評論社 25
J 無断検査、I.C(*).、診療拒否、診療報酬算定、カミングアウト、血友病訴訟(*)、企業とエイズ・危機管理、施設利用拒否、HIV理由の解雇訴訟 26
J 赤瀬範保死去 『差別って、自分の中にあるんですね』
1992 U 第8回国際エイズ会議の予定地をアムステルダムに変更して開催 27
1993 U 米国、薬剤耐性HIVの報告
1994 J ぷれいす東京発足(*) 28
U 第10回国際エイズ会議が開催された(*)(8月、横浜にて) 29
J 第一回「横浜エイズ文化フォーラム(*)」南定四郎 30
U エイズサミット、パリ、「政治課題」としての取り組み、GIPAの原則 58
J 「東京HIV診療ネットワーク(*)」発足 20
J 東京・豊島区 池袋に「エイズ知ろう館」開設 31
1995 J 石田吉明死去 『病者が病者でいられる社会をみんなで創っていきたい』 32
J 「関西HIV臨床カンファランス」発足 33
1996 U UNAIDS活動開始。多剤併用抗HIV治療の延命効果報告
J 菅直人厚相が国の責任を認め、東京・大阪HIV訴訟和解成立 34
1997 J 「エイズ治療・研究開発センター」を開設。8ブロック拠点病院指定。
J 東京都「外来診療のあり方に関する研究(*)」報告書 42
1998 J HIV感染者の身体障害者認定制度発足(*) 24
J 「感染症の予防及び感染症の患者の治療に関する法律」が成立 35
U J.Mann 飛行機事故で死去 36
U 南ア感染者治療アクセス行動運動(TAC)立法化に対し製薬39社が訴訟 37
2000 J 軽井沢 ポジティブカフェ「ノーチェ」開設 38
U WHO・UNAIDS、製薬5社、途上国の治療アクセスを拡大する共同構想 37
U ブラジルの工場所有権法をTRIPS協定違反として、米国がWTOに提訴 37
2001 J 第一回軽井沢エイズウォーク 38
U WTOドーハ宣言 ジェネリック薬による抗HIV治療アクセス拡大を容認 39
U 国連エイズ特別総会コミットメント宣言(UNGASS) 40
U ILO:政労使の行動規範を発表
2002 J 日本HIV感染者ネットワーク(JaNP+)発足 41
2004 U 世界女性エイズ連合(ICW)発足
HIVキャリアクリニック構想、候補地を探し始める。 42
2005 U G8首脳会議 治療への普遍的アクセスを目指す宣言。
U 第7回アジア太平洋地域エイズ国際会議、神戸で開催(*)
2007 ねぎし内科診療所開設。4月1日より自立支援医療機関指定 42
2008 U 米国オバマ大統領がHIV感染者の入国規制撤廃方針発表 翌年実施 27
U Treatment as Prevention(予防としての治療)の考え登場 43
2010 U IASがウィーン宣言。取締り中心でなく公衆衛生的手法を提唱、人権重視 44
2011 U CDCがMSM向けにHIV感染予防のツルバダ事前服用(PrEP)を承認 45
2012 U 第19回世界エイズ会議(ワシントンD.C.) 27
2013 U HIV治療へのアクセス向上にする専門家会議 UNAIDS Feature story 46
2014 J 2013年 日本の新規報告数(HIV感染者・AIDS患者)は過去最高
U UNAIDSが「2030年のエイズ終結に向けて」を発表 47
U 米CDC公式サイトが、米国内のHIV感染状況を報告 48
U 第20回国際エイズ会議 メルボルン宣言『誰も置き去りにはできない』 49
U UNAIDS,PCB,「HIV感染者の治療へのアクセスを阻む知的財産権の壁」 50
J HIV感染予防に貢献してきたaktaの存続危機 51
2015 数字に表れない郵送検査、疫学資料に疑問 52
U 「NO TIME TO LOSE」P.Piot著 53
U HIV/AIDSへの米国国家戦略改定 54
U UNAIDS Terminology Guidelines-2015 を公表 55
2016 U 国連総会ハイレベル会議の政治宣言 56
U UNAIDS レポート
U WHOがHIVST(HIV自己検査)のガイドライン発表 57
J 10月、『エイズ・性感染症小委員会』への感染当事者参画が実現せず。 58
2017
1 当時、内務省衛生局長の長与専斎は「松香私志」の中で、隔離について『多数を救うには少数は顧みるにあらずとの主義』と述べた。その後、1897年(明治30年)の伝染病予防法制定へとつながった。
2 1996年まで90年間施行された。小笠原昇らは「絶対隔離政策」に反対し、京都大学病院では、隔離せずに入院および外来診療をした。注25も参照。
3 第二次世界大戦中に法や国の命令に従った医師らが、患者の人権を合法的に侵害した事例があり、この宣言が出された。医師には1、患者の自己決定権を擁護する。2、医師および医師団体には、第三者からの自立(主体性)が要求され、3、「第三者による患者の人権侵害」を防止することを求めている。『患者の人権』の内容は、『差別なく最善の医療を受ける権利、自己決定権、守秘期待権、尊厳を尊重される権利、宗教的支援を受ける権利』などを、基本的人権の原則に挙げ、世界医師会(WMA)はこれらを擁護すると宣言した。WMA Declaration of Lisbon on the rights of the patient
4 ニューヨーク、カリフォルニアでゲイの「奇病」(GRID)を救済する活動開始。後に、J.Mann(注2736)は「我々は、ゲイの人々に感謝すべきである。この病気とどう闘い、どう付き合うかの有力なサンプルを与えてくれた」と発言している。
5 1983、厚生省「AIDSの実態把握に関する研究班」発足。8月、同研究班、血友病患者症例のエイズ認定を見送る。同研究班は、1984年解散し、「AIDS調査検討委員会」発足。エイズサーベイランス開始。協力医療機関600指定。HTLV-Ⅲ抗体陽性で発病していない人も多い事実判明。慢性進行性感染症との認識がされた。
6 血友病者団体(洛友会、東友会、鶴友会)との勉強会、『京都からの手紙』会合で、石田吉明・赤瀬範保・宇野信子に会う。上田、吉岡、佐藤医師ら、後に高田医師とも話し合った。「病名告知の是非」も課題であった。東京ではAIDS診療担当者連絡会が開かれるようになり、後の東京HIV診療ネットワークへと発展した。
7 その後のエイズパレード、プライドパレードなど、公共の場での行動の発端となった。(後に、イベントの商業主導権での争いあり) 注30も南定四郎が発起人。
8 「らい予防法」施行下、AIDSに関する単独立法案への動き。議員から『ひとりの人権を守るあまりに、99人の命を危うくしてもよいのか』の発言あり。自治体に「調査権」「検査命令権」付与。臨床医療の場に行政の介入権を設定した。
9 大井玄等、日本公衛誌、34(2)49-54,1987
10 大井玄、伊藤雅治、根岸昌功、 根岸は『感染者は犯罪者ではなく、支援を必要とする人である』と主張。朝日新聞論壇、3月11日
11 ハンセン病者からの手紙あり『らいと同じ間違いをしないでほしい』
12 医師、研究者だけでなく、エイズに直面した当事者・関係者、看護職、心理職、相談員など多分野の人が参加する会が開催され、意見交換があった。後の日本エイズ学会に受け継がれた。
13 『エイズという病気はほかのどんな疾患にもまして、人と人との結びつきを破壊し、社会に波紋を投げかける』、『エイズは医学の進歩で管理できるだろう。しかし、エイズの生み出す心の問題、社会の問題については、一人ひとりが考え、答えを出していくしかないのではないだろうか』と指摘した。
14 HIVの増殖を抑制する核酸系逆転写酵素阻害剤。以降、改良された。あるいは作用機序の異なる薬剤との組み合わせ療法が行われているが、HIVを駆逐する薬剤ないし医療技術はまだ開発されていない。まだ予防・治療利用のワクチンもない。
15 TRENDS、10月号に掲載。翻訳根岸:「らい患者の過去から学ぶ」が副題:ShensonはS.Sontagの“IllnessasMetaphor”を引用し、『らいと同じくエイズが何かを象徴してなどいない』と述べ、さらに『エイズは新たに現れた一つの病気に過ぎず、それを超えるものでも、それ未満でもない。エイズの犠牲者はいない、犯罪がないのだから、誰も非難されるいわれはない、危害を及ぼす意図のある人はなかったのだから、そこには単に、病気の男と女、そして子供がいるだけで、彼らはみな、私たちの支援を必要としている』と指摘した。彼は『エイズという病気を過去の偏見から解き放ち、社会的に管理できる病気に変えることは、私の診察室から始まる。私には患者の予後は変えられない、しかし、彼と彼の病気との関係を変えることはできるのだ』と述べている。彼は後にハイチからの移民規制問題にも関わった。
16 屋鋪恭一が作り、全国組織へと発展し、東京にも活動拠点ができた。
17 エイズ予防法案についての意見陳述。根岸(社会党から)は取締りの姿勢ではなく、支援提供の姿勢が必要であり、障害者としての支えが必要と述べた。法では、血友病のHIV感染例は医師の届け出義務対象にはしないと定められ、法対象外の集団を作った。法は平等?との疑問。「良いエイズ悪いエイズ」の芽を作った。
18 山形操六専務理事はエイズ予防財団を牽引し、後にAIDS&Society研究会議を叱咤し、支え、『組織を動かすには、科学的な根拠と方法が必要だ』と主張していた。
19 エイズ予防財団の13の主要事業のひとつ。医師・看護師・臨床心理士等を対象とする相談員養成研究事業で、現在は各自治体で行われている。その基礎を築いた。
20 1986年の担当者勉強会が発端。1990年任意団体として発足したが、会員一部に科研費研究受注を目指す動きがあり、一時自然消滅し、1994年に正式に再発足した。個人の責任で参加し、本音で話し、本人の許可ない引用を認めないという協定がある。約6-8週間に一回の会合をし、必要なら、有志として関係機関や団体に意見を陳述する。陳述に参加するもしないも個人の自由。
21 宗像恒次が代表で後にNPO法人になった。途中から根岸が代表を継ぎ、現在までに125回のフォーラムを実施している。医学・医療、心理、教育、社会、行政、企業、NGO、経済、法律、哲学、報道、HIV+者、各分野の個人、団体が参加し、HIV/AIDSと闘う個人と団体を支援している。樽井正義、宮田一雄、池上千寿子、仲尾唯治、森田眞子、沢田貴志、寺口淳子、永易至文ら。ホームページはhttp://www.asajp.net 当研究会議からPWA賞(HIV感染に深くかかわり、前向きに大きな影響を与えた人に受けてもらう賞)を受けられた方は、石田吉明(京都からの手紙)、広瀬泰久(JHC)、宇野信子(山形へモフィリア友の会)、平田豊(エイズサポート千葉)、稲田賴太郎、たんべ(H.I.Voice)、松田瑞穂(HELP)、木村久美子(Kラウンジ、ぷれいす東京)、屋鋪恭一(ケアーズ、JHC)、山形操六(エイズ予防財団)、井上洋士(SHIP)、木島知草(風知草の会)、南定四郎(エイズアクション)、野田衛(国際ビジネスコミュニケーション協会)、沢田貴志(SHARE)、桃河モモコ(SWASH)、市川誠一(神奈川県立衛生短大)、長谷川博史(NoGAP)、北山翔子(ぷれいす東京)、家西悟(大阪HIV薬害訴訟原告)、生島嗣(ぷれいす東京)、張由紀夫(akta)、稲葉雅紀(アフリカ日本協議会)で、各分野の活動家である。
22 人は名前(個別性)を持ち、誇り高く産まれ、生き、仆れても、その名は記憶される。NAMES projectの理念は、HIV感染でくれた人に限らない。病気で、事故で、あるいは天災で、人は命を失うが、ひとりひとりが、個別的価値を持ち、その名(個人の尊厳)は記憶される。斉藤洋、寺口淳子ら、現在も多方面で活動中。
23 「エイズと闘った少年の記録」Ryan White, Ann Marie Cunningham共著、加藤耕一訳、ポプラ社、1992 Ryanは血友病者として血液製剤からHIVに感染し、PCP(ニューモシスチス・カリニ肺炎)を発症。地元の学校は共に学ぶことを拒否。Ryanたちは地域社会とも闘わねばならなかった。しかし転居先のシセロの町とハミルトンハイツ高校には理解ある人々もいて、彼らを支えてくれた。後にホワイト基金が創設された。この年、Keith Haringは31歳で死去。
24 1996年、東京HIV診療NWで福祉制度の検討をする際、社会事業大学佐藤久夫教授に国際障害分類(ICIDH-β)の講義を受けた。この分類では、身体、個人、社会の3次元でのマイナス部分を機能障害、能力障害、社会的不利の三つに分け、その人の背景因子(個人因子と環境因子)の違いによって、社会参加が左右されるとしている。これらの理念が、1998年のHIV感染症の内部障害認定への理論的裏付けになった。注34参照。その後、2001年の改正国際生活機能分類(ICF)では、パート1、生活機能と障害(心身機能と構造、活動と参加)と、パート2、背景因子(環境因子、個人因子)の二つに分類し、生活機能と障害が、健康状態と背景因子に影響される各構成要素間の相互作用を明確にし、障害のマイナス部分のみではなく、プラスの面にも位置を与えている。
25 「エイズ予防法」は法曹界にも波紋を投げかけ、1987年には自由人権協会に小委員会ができ、この法律が成立する前に、対案「疾病サーベイランスの適正を確保する法要綱」と「性行為感染症予防法案」が発表された。ジュリスト 924号。予防法施行後も検討を続け、「エイズに学ぶ」が編集された。山田卓生、大井玄、根岸昌功編 日本評論社 1991年。保田行雄は、血友病者への差別の現状を、和泉眞蔵は「らいの歴史に学ぶ」を、芦沢正見は「性病予防法の歴史と教訓」を、森田明は感染症対策法令の問題点を、江橋祟は「感染症対策と人権」を、庭山正一郎は「サーベイランス要綱のメリット」を論じている。既存の法規定に縛られず、法的対応の問題点を指摘し、評価をしているので、現時点でも有用な観点である。
26 1991年から、HIV関連の人権を巡る多くの事柄が問題となった。
27 第8回国際エイズ会議組織委員長であったJ.Mannは米国のHIV感染者に対する入国規制政策に、公衆衛生学的根拠がないと撤廃を進言した。しかし、受け入れられなかったため、開催予定地をボストンからアムステルダムに変更。以来、2012年まで、米国内では国際エイズ会議を開くことができなくなった。
28 池上千寿子が創設、「直接支援」、「予防啓発」、「研究・研修」が活動の柱。成果を情報発信し、コミュニティーに還元するのが目標。生島嗣が引き継いだ。
29 アジアで初めての国際エイズ会議、主催は組織委員会(委員長、塩川優一教授)とエイズ予防財団。8月7日から6日間、143カ国、12623人が参加した。それまでコミュニティー・リエゾン(community-liaison)の考え方への理解不足、及びエイズ予防法に感染者入国規制があったため、主催者に混乱があったが収穫も多い会議であった。
30 市民からの積極的参加として実施され、その後も毎年夏に横浜でフォーラムが開かれている。岩室紳也が引き継いだ。京都では「エイズ文化フォーラム in 京都」が2011年10月から毎年開催されるようになった。
31 「エイズについて学びたい」という中高生からの要望に応え、「正しく知り」「考え」そして「行動」できるよう学習するためのスペース。東京都のエイズ対策普及啓発活動の拠点となっている。2007年に10代を対象とする「ふぉー・てぃー」が始まり、多くの分野の教材となる資料が集められている。
32 1993年東京都は、HIV感染を告知された方用に、この疾患との付き合い方の参考になる情報冊子を作り、表紙に石田吉明氏の写真を使い「たんぽぽ」と命名した。写真は更新されたが、現在も「たんぼぼ」は多くの人に利用されている。
33 上田良弘、松浦基夫、白阪琢磨ら8名の医師、7医療機関が連携して活動を開始した。
34 医療機関体制(拠点病院等)、福祉制度(障害認定、自立支援、年金等)和解条件の恒久対策は、その後のHIV医療へのアクセスに大きな影響を与えた。
35 いわゆる「エイズ予防法」「伝染病予防法」「性病予防法」が廃止され、この法律が施行された。HIV感染症は、大臣告示の『予防指針』で対応し、5年ごとに更新する。
36 4の当時から、J.MannはHIV感染者が自らの命とエイズ対策に関わるプログラムの製作に参加する権利とを擁護するために闘ってきた。当事者の参画(GIPA原則)とも関連。没後10年の2008年にUNAIDSは保健と人権分野における彼の業績を讃えた。
37 WHO、UNAIDS、製薬資本、知的財産権と治療アクセス間の対立を認識した。
38 木村久美子が軽井沢にポジティブカフェを開いた。以後、数年間、HIV+者のみならず、その関係者、障害を抱えている人が安心して過ごせる空間が用意された。ここを起点に4回のエイズウォーク軽井沢が開かれた。現在は閉鎖されている。ほぼ同時に、山形で宇野信子がポジティブカフェを開設した。現在は閉鎖されている
39 WTOの知的所有権の貿易関連側面に関する協定(TRIPS協定)は治療薬の知的財産権については一定の制限を設けている。宣言はこれを順守するよう主張した。
40 加盟国は定期的に自国のHIV感染症対策の進捗を報告することが決められた。
41 HIV感染者の全国的・国際的NPO。HIV陽性者として、自立した当たり前の生活ができる社会を目指す。長谷川博史、高久洋介。
42 根岸は1994年から土・日受診のできるHIV感染症外来診療構想を検討していた。1997年の都の報告書内容を参考に「キャリアクリニック構想」を作成し、何人かに構想を話し、同志を探した。同時にいくつかの財団に支援を要請したが、それで診療所が事業として継続運営できるメドが立たず、実施にいたらなかった。施設基準を満たす必要最小限の規模設備で実行を決意し、候補地探しを始めた。大手不動産紹介業社は、HIV感染症を扱うと説明すると、ほぼ門前払いで、貸主との話し合いにさえたどり着けなかった。三社であきらめ、駅前不動産屋に飛び込むことにし、しらみつぶしにあたり始め、2年ほどのうちに3ヶ所の不動産屋が、我々を応援してくれた。その候補地のひとつで現在まで診療所経営を続けている。活動内容、課題は、日本エイズ学会に毎年報告している。
43 HIV診療に携わってきた医療者は、以前から、ART(抗HIV剤治療)で、HIV-RNA量が少なくなると、その人からの二次感染がないことを知っていた。しかし、薬剤の毒性、副反応、長期使用の副作用、膨大な費用から、T as Pを政策として取り入れる国や地域はなかった。HIV感染拡大防止の政策としてのT as Pには慎重な検討が必要であり、この政策の社会的背景を検討する必要もある。注56も参照必要。
44 国際エイズ学会(IAS)が国際エイズ会議の前に出した宣言。薬物使用によるHIV感染の報告は、全世界に分布していて深刻な状況である。薬物使用を犯罪であり使用者を犯罪者とみなし、拘束し、処罰することで、薬物使用を止められるのか検討しなおす機運を作った。ウィーン宣言は、薬物使用者を「犯罪者」ではなく「治療を必要とする人」と位置づけた。
45 MSM(男性と性交渉する男性)向けにHIV感染予防のためのツルバダ事前服用(PrEP)ガイドラインを発表した。効果のあるのは三つの条件下である。1、MSM、2、カウンセリング、コンドームアクセス、性感染の診断治療を含めたサービスの一環としてツルバダを提供、3、HIV検査、副作用、服薬確認、行動確認。位置づけは注56を参照。
46 ARTを途上国のHIV感染者がもっと受けられるようにするのがテーマ。低価格の第2世代治療薬の普及を妨げる過度の知的財産権政策が、治療および予防の妨げであるとし、知的財産権の新たな枠組みを提言している。
47 実現のためには、2020年までに、HIV感染者の90%が感染を知り、そのうち90%が治療を受け、そのうち90%がHIV量を抑制することが必要とした。この「カスケード」(90-90-90)と言われる手法は、既に結核対策で経験済みである。
48 2013年末の米国の推定HIV感染者は120万人で、うち86%は感染を知り、82%は治療にアクセス、継続は39%、HIV抑制は30%で、カスケードは(86-45-67)と報告。http://www.cdc.gov/vitalsigns/hiv-aids-medical-car/index.html
49 『誰も置き去りにはできない』が宣言された。「世界各地で、性的少数者を犯罪者として扱う立法や政策、法執行が報告されている。すべての人は、そのsexualityにかかわらず、平等の権利があり、HIV予防ケア治療の情報とアクセスでも平等である。各国政府はHIVに対する脆弱性を高めるような抑圧的法律を廃止し、差別的政策と法執行をやめ、平等な扱いを実現するための法律を成立させる」ための行動を促す。「依然として流行の主要因になっている犯罪視や偏見、差別などの障壁を克服できなければ、エイズの終わりは実現しない」と結んでいる。
50 J.Rockが報告:途上国の現状は、HIV-RNA量測定が十分できないまま1290万人にARTがされ、薬剤耐性検査もできない。まだ同数の感染者がARTを待っているが、第2、第3選択ARTもない。インド製薬会社の買収によるジェネリック薬供給阻止、南アでの薬剤生産阻止行動などが実施され、現在、WTOのTRIPS協定は守られず、ドーハ宣言にも違反していると指摘した。『知的財産権障壁を解消しない限り、PrEP、T as Pもあり得ない」と述べている。
51 新宿2丁目にあるaktaはHIV/AIDS予防啓発拠点として、情報提供、コンドーム配布等を実施し、MSMのHIV感染予防に貢献してきた。同様に活動しているコミュニティーセンターが全国6ヶ所にあるが、活動の存続が困難になっている。エイズ対策予算削減のためと言われている。
52 感染症対策の基礎になっている疫学資料は適切であるのか、研究班報告の郵送検査件数にも触れている。根岸昌功「男性のSTI」公衆衛生 79,176-180,2015、須藤弘二ら「HIV郵送検査の現状と展望」 J of AIDS R.;17 138-142,2015
53 副題「エボラとエイズと国際政治」(宮田一雄/大村朋子/樽井正義訳、慶應義塾大学出版会) P.PiotはUNAIDS事務局長を2008年まで続け、AIDS、エボラに対する国際的対応に携わった。
54 『HIV感染はまれにしか起こらず、感染しても、年齢、性別、人種/民族、性的指向、性的アイデンティティー、あるいは社会経済的立場にかかわらず、すべての人が良質で、長寿を可能にするケアをなんの束縛もなく受けられる。また、偏見や差別に曝されることもない。米国はそのような場所になる』とし、四つの具体的目標を示し、10項目の数値目標を設定した。
55 HIV関連の用語の定義、解説をすることで、UNAIDSの基本的スタンス、政策実行の姿勢、方向性を知ることができる。例えば、“HIV testing services”に示された5つのCなど、検査提供の際に組み合わせるべき事柄を示した。5つのCとは、同意(consent)、守秘(confidentiality)、カウセリング(counseling)、正確な結果(correct test result)、予防・ケア・治療への接続(connection/linkage to prevention care and treatment)である。エイズ予防財団訳。
56 2030年までに「公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行終結」を目指す。2020年まで対策対応を急ぐ。2020年までの目標を設定した。1、年間新規感染者資金の増額等で、数を50万人以下に、2、エイズ関連死亡を50万人以下に抑える。3、HIV関連の偏見と差別をなくす。しかし、各国の思惑に配慮し、HIV感染症流行の鍵となる“keypopulations”(MSM、SWとその客、transgender、IVVDUの4集団など)については、充分には触れられていない。PrEPは声明の第48項で、予防シール(T as P,PrEP、ミクロビサイダル、予防治療としてのワクチン、割礼、完治療法など)の一つとして、さらなる研究を歓迎していると記載されている。
57 自身で自分の検体(血液ないし唾液)を採取し、自身ないし信頼できる人と一緒に検査し、その結果を見る。HIV検査をより普及させる手段の一つとしての位置づけで、結果が陽性であっても、陽性と判定せず、資格のある施設で確認しなければならない、と強調している。http://www.who.int/hiv/pub/vetalternate.Policy.brief.HIVST-
58 10月、厚生科学審議会感染症部会で「エイズ・性感染症小委員会」の設置要綱を決定し、『予防指針』の検討が始まった。10人の委員に感染当事者はなく、政策決定過程における当事者の参画は実現せず。「国連・障害者の十年」(1983-1992)以降、当事者の参加・参画の権利が国際的に推進され(HIVではGIPAの原則:1994年)、当事者のニーズをより反映した政策を実現できるようになったが、日本では参考人での意見陳述に留まった。

ビギナーズ鎌倉 http://miyatak.hatenablog.com/entry/2017/04/16/224542
GIPA http://data.unaids.org/pub/briefingnote/2007/jc1299-policy-brief

「政策決定過程における当事者参画の意義」 月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2009年7月号 http://www.dinf.ne.jp

2016年11月のUNAIDSの報告によると、2015年末の推定数は、HIVとともに生活している人は3400-3980万人(生活していた人の累計は7800(6950-8760)万人で死亡累計は3500(2960-4080)万人)2015年の新規感染者は210(180-240)万人、この年の死亡は110(94-130)万人であった。ARTを受けている感染者は1700万人と推定されている。 T as P、PrEPの効果はこの5年間ではまだ現れていない? なお、2016年11月の報告では2016年6月時点では、抗HIV剤治療を受けている人は1820(1610-1900)万人に増加した。★の推定数は変化し、確定値ではない。
● 表1 医療現場に関与する三つの分野
医学 疫学 分布、コホート 社会的影響評価 戦略、政策
基礎医学 科学的解明 治療技術研究 技術の実用化
医療 医療技術 診断、病状評価 技術開発 治療、経過評価
医療制度 技術提供の整備 保険・福祉制度 医療を支援
社会 疾患への姿勢 分類、規範、法律 戦略、政策 事実の受容

 エイズ&ソサエティ研究会議の根岸昌功代表が2016年9月27日(火)夜、東京・信濃町の慶應義塾大学病院で開催された東京都HIV/AIDS症例懇話会で「HIV感染症~もうひとつの闘い~」をテーマに講演しました。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/iryo/kansen/aids/syourei_keio.html#cms333C1

 その講演の資料として配付された根岸代表作成の《HIV/AIDS年表 一臨床医の立場から》には詳細な注が付けられており、あわせて読めば『もうひとつ』などでは決してない重要なHIV対策の流れを把握することができます。当サイトではその高い資料性と現在の課題にも対応しうる今日性を重視し、《資料室》欄に注も含めその年表を掲載しました。
 すでに《エイズ基本情報》欄に掲載されている『年表』とあわせ、折に触れてご参照いただければ幸いです。